■VTJ前夜の中井祐樹■
(『ゴング格闘技』2009年6月号掲載)

平成元年4月、18歳の中井祐樹が北大柔道場に見学にやってきた。
6年後、その青年はある決意とともに日本の総合格闘技界の歴史を変えることになる。
「いつか中井の特集が組まれるときに、これを使ってください」
編集部に託されていた秘蔵原稿がついに日の目を見る時がきた。
そこには、われわれが知らない中井祐樹の姿がある。
バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95。
一夜の栄光と悲劇が交錯したあの試合の陰にあった、もうひとつのドラマとは………。




文◎増田俊也
text by Masuda Toshinari

 平成7年(1995)4月21日昼。
 私は東京都内の曹洞宗の禅寺で吉田寛裕の一周忌に出ていた。
 そう、あの伝説のバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95を日本武道館で観戦した翌日のことである。

 中井祐樹も当然来ているだろうと思ったが姿がなかった。
 いま思えば、朝起きて右目が見えないことに気づき、病院へ行って失明を告げられ、愕然としているときだったのだ。

 一周忌には岩井眞監督やコーチ陣のほか、札幌、大阪、福岡など、全国から北大柔道部の若いOBが何十人も集まっており、試合を観戦した私たちは質問攻めにあった。

「ゴルドー戦はどんな感じだった?」

「中井はどうやって戦ったんだ?」

「ヒクソンはそんなに強いのか?」

 読経のなかで話す私たちを、坊さんは苦々しく背中で聞いていたにちがいない。だが、私は吉田寛裕もきっと試合の詳細を聞きたがっているだろうと思って丁寧に話した。

 ほかのOBも同じ思いだったに違いない。
 はじめのうちこそ遠慮して小声で話していたが、そのうち盛り上がって読経の声より賑やかになってしまった。

 この試合を最も観たかったのは吉田だろうし、中井がこの試合を最も見せたかったのも吉田だと思う。

 だからそんな吉田に私は聞かせてやりたかった。中井の勇気ある戦いを。中井はほんとうに頑張ったんだよ……。

 あの日、中井祐樹は2人の魂を背負ってリングに上がっていた。

 中井は、四年目の最後の七帝戦を終えると、すぐに北大を中退してプロシューティング(後のプロ修斗)に進んだ。平成4年の夏のことだ。その3年後にこのバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95に出場したわけだが、この3年間に2人の大切な男を亡くしている。
七帝戦決勝後、涙で健闘を讃え合う九大主将の甲斐泰輔(左)と中井祐樹(中央)。その2人の背中を叩いて声をかける北大主将の吉田寛裕(右)。甲斐も吉田も中井のVTJ95の勇姿を見る前に20代前半の若さで夭折した。


 ライバルの甲斐泰輔(九大主将)と親友の吉田寛裕(北大主将)である。 副主将だった中井は、彼らとともに七帝柔道最盛期の一時代を担った。

 九大の甲斐泰輔はとてつもなく強い男だった。寝技にかけては、おそらく当時の日本の重量級で最も巧い選手だっただろう。

  110キロの体で軽量級の寝技をやったのだからだれも止められなかった。15人目の大将にチームで最も弱い置き大将を置く。そして甲斐は副将に坐り、相手校が5人残っていようが6人残っていようがすべて抜き去ってしまう、まさに怪物であった。彼を確実に1人で止めることができるのは七大学でただ1人、中井祐樹だけだった。

 戦前の高専柔道も、早川勝、野上智賀雄、木村政彦、木村光郎ら名選手をたくさん輩出しているが、戦後の七帝柔道で最も強かった選手は間違いなく甲斐である。長い間、京大柔道部を指導し、『国立七大学柔道戦史』の大著もある丹羽権平氏(京大学士柔道会会長)も「史上最強は甲斐君だ」と断言する。

 一方の吉田寛裕は、小柄だが闘志の塊のような男で、寝技の緻密さでは中井の後塵を拝したが、投げ技も合わせた総合力という点では上だった。しかし、柔道衣を脱げば、豪放な笑顔を見せる魅力的な男だった。

 入学当初は寝技中心の部の方針に反発していたが、先輩たちが七帝戦のたびに見せる涙に感化され、主将に就くころには北大柔道部精神の権化のような男に育っていた。

 吉田が亡くなったとき、私は数日遅れて自宅を訪ね線香をあげさせてもらったが、そのとき吉田の母親に「寛裕を北大柔道部に取られたような気がします……」と言われて胸が痛んだのを覚えている。それほど彼は北大柔道部にのめりこんでいた。

 私は、この中井や吉田、甲斐たちの3期上にあたる。つまり彼らが一年目の時の四年目だ。当時は京都大学が連勝街道を驀進中だった。一方の北大は、実に5年連続最下位という最悪の状況に陥っていた。

 必死の長期強化がやっと実り、私たちの代が3位、次の代も3位、そして中井たちが三年目のときに準決勝で10連覇中の京大をついに破った。しかし、決勝戦には怪物甲斐を擁する九大が待っていた。

 大将決戦でも勝負は決まらず、代表戦になった。

 九大はもちろん甲斐を出してくる。北大は本戦2人目で甲斐を止めた128キロの巨漢、四年目副主将の後藤康友を出した。後藤は立っては不利なので引き込んで下から脚を効かせるが、すぐに甲斐に脚を一本越えられた。甲斐は二重絡みで守る後藤をそのままの姿勢から袖車に変化して絞め落とした。

 平成4年、最上級生になった中井や吉田たちは打倒甲斐を合い言葉に1年間対策を練り、大阪での七帝戦1回戦で九大と激突、作戦どおり中井が甲斐を止めて1人残しで辛勝。敗者復活を勝ち上がってきた九大と決勝で再び相まみえ、これを破って12年ぶりに優勝旗を奪還した。

 甲斐は北大への雪辱のために5年生の七帝戦にかけて猛練習を続けていたが、急性膵臓炎で22歳の短い命を閉じた。吉田もその後を追うように24歳で逝く。

 若き情熱が七帝戦の舞台でぶつかり、そしてはじけ散った……。

 私は創部100周年を記念して出された『北海道大学柔道部史』の編集委員をつとめたので、中井の寄稿も原稿の段階で自宅で読ませてもらった。

 それを読みながら、私はあふれる涙を抑えることができなかった。

 そこには吉田寛裕との想い出が中井らしい優しく淡々とした筆致で書かれていたからだ。

《今1991年春頃の事を思い出しています。或いは初夏のことだったでしょうか。
 その日僕は同期の吉田寛裕と珍しく練習後ふたりきりで(最初で最後か)銭湯に来ていました(僕は何故か実は誰かとふたりで行動する事が極端に少ないのです)。当時三年目の僕はいらいらしていました。西岡さんを始め四年目の先輩方も辛そうに見えました。かつて全国一に輝いた伝統ある部(増田注=昭和九年の高専大会優勝のこと)を引き継いでいるんだという誇り。しかしそれを望んでも叶えられない現実と力不足。全てが遠く感じられていました。
 湯船に浸かりながら僕らはどうしていくべきかを延々と語りました。吉田は少しばかり驚いているようでした。僕はあまり現状を悲観しない人間だと思われていたのかも知れません。いや、悲観じゃなくただ泣きつきたかったのでしょう。四年目の七大戦迄はこの部に賭けようと考えていた僕を吉田は実にポジティヴに受け止めてくれました。そしてスッキリした僕はそれっきりネガティヴな想いを消しました。
 結果この年は限りなく優勝に近い準優勝。西岡さんの背負い投げは今も瞼に焼き付いたままです。秋には吉田の援護射撃のつもりで出た個人戦でまさかの正力杯への切符を掴む事となります。翌年我々は優勝カップを奪回する事に成功しました。そして僕は北大を離れました。
 あれから15年以上の時が流れましたが僕は未だ問い続けています。立技、寝技。武道か、スポーツか。生きる事、死ぬ事。闘う事の面白さそして闘う意味を世に問う事は僕のライフワークとなりました。今も北大時代は僕の中ではずっと変わらぬいい思い出です》(『部創立百周年記念北海道大学柔道部史』)

 文中に《四年目の七大戦迄はこの部に賭けようと考えていた僕は……》とあるように、おそらく中井は三年目のこのとき、すでにシューティングに行くことを決心していたのだろう。

      *    *    *

 私が中井と初めて会ったのは、平成元年(1989)の4月はじめのことである。

 四年目で副主将だった私は、いかにして5年連続最下位から脱出するかと、同期の連中と一緒にもがき苦しんでいた。

 当時の北大には、かつて重量級のインターハイ選手をずらりと揃えてつねに七帝戦の優勝候補の一角に挙げられ、講道館ルールの優勝大会(学生日本一を決める七人制の大会)でも全国トップクラスの大学と互角勝負をしていた面影はどこにもなかった。

 北大が強い頃、東大のOBがこんなことを書いたという話が伝説として残っていた。

《北大は高校時代から柔道ばかりやっていた柔道バカでも入学できる入学難易度の低い大学だから優勝して当然である》

 この文章を私は現役時代に部室で暇つぶしに何度か探したことがあるが結局みつけることができなかったので、実際にあったものかどうかはわからない。しかし、こういう伝説があること自体、いかにかつての北大が強かったのかということである。

 最下位の泥沼から抜け出すために、各代の幹部たちは毎年いろいろな工夫を続け、さらに練習量を極限まで増やしていたが、どうしても勝てず、ずるずると最下位を続けていた。

 悪循環だった。

 最も大切なのは、とにかく部員を増やすことであったが、入れても入れても、練習の苦しさに新入生が辞めていくのだ。

 15人戦の七帝戦は総力戦である。数こそ力なのだ。とにかくだましてでも新入部員を入れ、鍛え上げねばならなかった。

 私たちの代は常勝京大を破っていきなり優勝するなどということは考えることすらできない状態だった。

 私たちがやるべきことは、まずは連続最下位からの脱出だ。そして未来へつなぐ優勝の夢実現のために、部員を増やし、その夢を託すことのできる核となる男をさがしていた。

 それは高校時代の実績でも体格の良さでもなく、勝つための強い意志をもった男だった。

 寝技中心の七帝柔道においては、一年目のときの実力がそのまま四年目まで順位が変わらないなどということはありえない。

 誰が伸びるかやってみないとわからないのである。

 それが七帝柔道の最も魅力的なところかもしれない。

 インターハイで上位入賞し鳴り物入りで入ってきた重量級の選手と、高校までまったく運動経験のないひょろりとした白帯の少年が、4年後にどちらが強くなっているかわからない……こんな胸躍る世界はほかにないと思う。

 その日、私たちはいつものように悲愴感を持って長時間の寝技乱取りを繰り返していた。

 全員怪我だらけだが見学なんかしていられない。
 七帝戦は3カ月後に迫っていた。とにかく穴になりそうな選手を鍛え上げなければならない。

 私が下級生を抑え込んでハッパをかけていると、横でやはり誰かを崩上で抑えながら「七帝本番だと思って逃げろ!」と怒鳴っている竜澤宏昌主将と目が合った。

 と、竜澤が「あっちを見ろ」というように顎で指した。

 道場の入り口の方角だ。

 私が首をひねってそちらを見ると、ベンチプレス台に座っている見学の一年目が1人いた。

 しかし竜澤が言いたかったのはそのことではない。

 その横でまだ入部したばかりの一年目である長高弘が両腕を組んで偉そうに講釈をたれている。長は札幌北高の柔道部の主将だった男で、高校時代からよく北大に出稽古に来ていた。だから同じ一年目でありながら、見学者に先輩風を吹かせて部の説明でもしているようだった。

 私は竜澤の目を見てうなずいた。

 竜澤が私に何を求めているのかわかったからである。4年間苦楽をともにした同期とはそういうものだ。

 私は、「乱取り交代」の合図があると抑え込みを解き、相手に最後の礼をしてすぐに長のところへ行った。

「長君、彼は一年目かい?」

 汗を拭きながら、わかっていて聞いた。

「はい。こいつは俺の北高の同期で、レスリング部のキャプテンだったんです」

 見学の一年目がきびきびとした動作で立ち上がって「中井祐樹といいます」と頭を下げた。

 私が「四年目の増田です」と右手を差し出すと、中井がしっかり握り返してきた。目をそらさない。気が強い男だ、こいつは絶対欲しいと思った。

「うちは見てのとおり普通の柔道じゃないんだ。寝技ばっかりだろ。レスリング出身者は伸びるぞ。俺が一年目のときの五年目の先輩にもレスリング出身で白帯から始めた人がいたんだけど、最後は一番強くなった。もう入ることは決めたのかい?」

「いえ、それは……」

 中井はそう言って頭をかいた。

 後から知ったことだが、中井は北大近くにある極真空手北海道支部道場へ入るつもりだったのだ。

 柔道部が寝技ばかりの特殊なものだと聞いてちらりと覗きにきただけだったという。高校で組み技をやったので大学では打撃を身に着けたいと思っていたそうだ。彼の頭のなかにはすでに「総合格闘技」の構想が芽吹いていたのである。

「そうか。まあ練習を見ていってくれよ」

 私はそう言って、竜澤が「私に求めていること」を始めることにした。

「よし。長君、一本やろうか」

「えっ? 俺ですか?」

 長は嬉しそうに「じゃあよろしくお願いします」と言って頭を下げた。高校の同級生の前で四年目に名指しで乱取りを所望されたのが誇らしいようだった。

 本来ならば道場の真ん中まで移動してから乱取りを始めるべきだが、私は中井の目の前で長と組み合った。そしていきなり飛びつき腕十字で、かなり強めに極めた。長が悲鳴を上げて手を叩いた。私はすぐ放した。

 長は立ち上がると首を傾げながら組んできた。高校生として出稽古に来ていた当時の長には力を抜いて相手をしていたから、私に抑え込まれたことはあっても関節を極められた経験がないのである。私は片手を持った瞬間、今度は反則すれすれの脇固めを極めた。長がまた「痛い!」と声を上げながら畳を叩いた。

 中井が身を乗り出して見ている。18歳のその目は好奇心に輝いていた。

 そこから私は長を立たせず、関節技を10秒に1回のペースで極め続けた。腕十字、腕絡み、三角からの腕固め、そして当時は地球の裏側でそんな名前が付けられているとは知らないオモプラッタなど、とにかく中井の興味を引くために、できるだけ見栄えのいい派手な技を使った。

 6分が終わり、乱取り交代の合図があった。

 長はふらふらになりながら最後の礼をした。そしてそのまま中井の横に座り込んで休もうとした。しかし、そこにやってきたのが竜澤である。

「おう、長君。彼は一年目かい?」

 私と同じことを聞いた。私はにやつきながら横目で見ていた。

「あ、はい。北高時代の同期で中井っていいます。レスリング部出身です」

 長は息を荒らげながら言った。

「ほう、レスリングか。伸びそうだな」

 竜澤が嬉しそうに笑った。

「主将の竜澤だ。よろしく」

 竜澤がやはり右手を差し出すと、中井が今度は明らかに憧れの色をたたえた目で竜澤の手を両手で握りかえした。

 竜澤が「うちに入れよ」と言うと、「そうですね、はい」と、かなり態度が前向きになっていた。

 竜澤と目が合った。

 私が「もう少しだな」と目で言うと、「任せとけ」とやはり目で竜澤が言った。

「じゃあ長君、俺とも一本お願いできるかな」

 竜澤が言うと、長が「えっ」と引いた。私と竜澤の意図に気づいたのだ。だが、今さらどこに逃げるわけにもいかない。

 竜澤が引き込んですぐに返し、そこから私以上の技のデモンストレーションをやった。

 横三角で一気に絞め上げ、長が「参った」するたびに技を緩め、逃げる方向逃げる方向へ関節技や絞め技を極める。

 入ったばかりの新入生なのでさすがに落としはしなかったが、長は痛みと苦しみに絶叫し続けた。前三角、後ろ三角、そして腕絡みのあらゆるパターン。

 中井はベンチから尻が半分落ちるほど前のめりになり、興奮しながらその技の数々に見入っていた。

 はたして、練習後のミーティングで中井は「入部します!」と宣言した。

 引退試合でもある七帝戦は七月の半ばだったから、私は中井と3カ月だけ現役時代が重なっている。

 おそらく30本や40本は乱取りをやっているはずだが、私には1回しか記憶がない。

 当時は七帝戦15人のメンバーに入る13番目、14番目、15番目の選手となる穴の三年目や二年目を鍛えるのに必死で一年目との乱取りは四年目にとって流すていどのものだったから当然だ。しかも中井はまだ白帯だったのだ。

 しかし、中井との乱取りを一本だけ覚えているのにはわけがある。

 投げられたのだ。

 その瞬間の光景と感覚だけは、20年たった今でもはっきりと覚えている。

 裏投げだった。

 いや、裏投げではなかった。プロレスでいうバックドロップ、アマレスでいうバック投げだ。

 裏投げだったら、いくら私がなめていたとしても投げられなかっただろう。

 バックドロップだったので、防ぐタイミングがずれたのである。

 そしてブリッジをきかせたそのバックドロップで、私は後頭部から畳に叩きつけられた。

 私は照れ隠しに笑いながら立ち上がった。

 問題はそこからだ。

 私が立ち上がると、中井は「よし!」と気合いを入れながらすでに私と組み合うのを待っていた。

 中腰で、脇を締め、両手を鷲のように開いて相手を捕まえんとするポーズで。

 レスリングの構えであった。

 その表情には、また投げてやろうという意志があった。

 普通、白帯の一年目が四年目に対してこんな態度をとることはありえない。

 もちろん北大柔道部では意味のないいじめのようなことはなかったが、それでも格闘技の部である。取れば何倍にもなって取り返されることはわかっている。

 力が四年目と拮抗しているかなり強い三年目であっても、取った後は怖がって精神的に引いてしまうことが往々にしてある。それは私とて同じである。下級生の頃はもちろんそうだったし、最上級生になってからも出稽古先で格上の選手を取ってしまったあとは、やはり怖くて気持ちが引いてしまいがちだった。

 中井は白帯のその時代から、そういうことをまったく怖れていない男だった。鍛えて身に着けたものではない、生まれつきの剛胆さを持っていた。

 私は、四年目の七帝戦が終わると中退してそのまま新聞社に入ったので、忙しくて道場に顔を出さなくなった。

 しかし、その年の秋頃には中井の寝技がどんどん強くなっているという噂をあちこちで聞くようになっていた。やはりな、と嬉しくなった。

 二年目の七帝戦ですでに先輩たちを押しのけてレギュラー入りし、分け役としてきっちり役割を果たしている。

 当時、部員は45人ほどいた。白帯から始めた中井がわずか1年3カ月の練習で15人のメンバーに入るのは驚異的な実力の伸び方だった。

 三年目時には下からも脚が効く本格的な寝技師として立派な抜き役に成長し、インターハイ3位の実力者を下から返し、横三から腕を縛って簡単に抑えて周囲を驚かせた。

 国際ルールの体重別個人戦でも北海道予選を寝技で勝ち抜き、正力杯(インカレ)で寝技を駆使してベスト16に入っている。これは国際ルールだったからベスト16だが、引き込みありで寝技膠着の「待て」がない七帝ルールならば当然もっと上にいっていただろう。

 中井は、とても大学で白帯から始めたとは思えない、化け物のような寝技師に育っていたのだ。

 もちろん超一流のブラジリアン柔術家となった現在の中井と比べれば力が落ちるのは当然だが、少なくとも、まだブラジリアン柔術が入ってきていない当時の日本では最高レベルの寝技を身に着けていたのは間違いない。

 長く北大柔道部を指導してきた佐々木洋一コーチが、中井が短期間で強くなった秘密を私に教えてくれたことがある。

「夜の練習が終わると、練習熱心なやつらは居残って技の研究とか腕立て伏せ1000回だとかウエイトトレーニングとかやってるだろ。ああいうことやってる連中は強くなってるよな、みんな。努力すれば当然強くなる。だけどな、中井はそんなことしてなかったよ。だからその強くなった連中以上に飛び抜けて強くなったんだ」

「何してたんですか?」

「道場の真ん中で大の字になって1時間くらい動けないで天井仰いでるんだ」

「………?」

「それくらい乱取りで全力を尽くしてるんだよ。一本一本の乱取りでいっさい手を抜いてないんだ。だから研究とかウェイトとかやる余力が残っていなかったんだ。俺は200人近く選手を見てきたけど、そんな選手は中井しかいなかった」

「技術的にはどんな感じなんですか」

「教えたこと教えたことすべて吸収しちまいやがる。さらにそれをアレンジして自分流にしてしまうんだ。そして『もっと教えてください』って何度も何度もやってくる。しつこかったよ。そのうち教えることがなくなっちゃったよ。あとは自分の力でするすると高みにのぼりつめていったんだ」

 中井は四年目の夏、悲願の七帝戦優勝を遂げると北大を中退し、シューティングに入門するために横浜へ移り住む。

 この中退してのシューティング入りについては年配のOBたちが大反対した。OBのなかで積極的に賛成したのは私と当時の岩井監督の2人だけではなかったかと記憶している。

 北大柔道部旧交会(OB会)が毎年発行する『北大柔道』という部誌がある。これには学生のほか、OB、指導陣らが寄稿するのだが、中井たちが引退した年、監督が中井に言及した部分を拾ってみよう。
七帝戦スコア
《副主将の中井は、大学から柔道を始めたが北大を代表する寝技師に成長した。三年の時には体重別71kg以下級で準優勝、更に全日本では関西代表選手を寝技で破り、北大の寝技が全国・国際ルールでも充分通用することを示してくれた。彼の特徴は何といってもそのガッツであり、稽古の時から気力に溢れ、道場の窓が開いている時は武道館に近づくにつれ、窓が閉まっている時には武道館のドアを開けると彼の掛け声が聞こえ、私自身気が引き締まる思いがした。7月の出陣式の際「今年は僕、甲斐でいいですよ」と中井から切り出してきたが、その言葉に彼のフォア・ザ・チーム・七大戦にかける意気込みを感じたし、また、おぼろげながらにイメージしていた対九大の作戦が固まっていった。彼は8月に大学を中退し、「シューティング」という格闘技の道に進んだ。「何故」と首をかしげる人もいるだろうが、それも一つの生き方であり、私自身としては彼の今後の活躍を楽しみにしたい》(『北大柔道』平成4年度版)

 中井自身は、横浜から〈ドント・ルック・バック〉という題名でこんな原稿を送ってきている。

《皆さん、お元気ですか。僕は今、バイトに稽古にと多忙な日々を送っております。結構シンドイと感じることもありますが、どうにかこうにかやっています。現役部員として部誌を書くのは最後ということで少し緊張して机に向かっているところです。
 僕が北大にいた3年4カ月を現在、冷静になってみて素晴らしいと言えるのはやはり柔道があったからだと思う。食事や睡眠など生活のほとんど全てをそそぎ込み、熱中した柔道、技術を創り上げることとは何か、そしてその喜びを知った柔道、自分の考え方を生み出す原動力(あるいは基準、アンチテーゼ)となった柔道(部)、講道館柔道に七帝柔道など、自分の中で柔道は様々な表情をしていたとつくづく感じる。そんな中で七大戦を優勝で飾ることが出来たということは、取りも直さずやるべきことはやったということを意味していた。だからこそ、僕は今ここにいるのだ。(中略)
 七帝前の壮行会で酔った椛島(増田注=次期主将)に「中井さんには(進路は知っているけど)もう1年やって欲しいんです」と言われた。でも僕は「俺が柔道部に残ることは楽なことなんだよ」と答えた。真意が伝わったかどうか分からないが、僕には心の安らぐ場所であった柔道部、そして北大を去ることの方が長い目でみてベターであると思っていた。ただそれだけのことだった。(中略)
 諸先輩の方々、14人の同輩達、後輩諸君、本当にどうもありがとうございました。シンドイ時は皆さんの励ましの言葉を思い出して、元気を出したいと思っています。
 それでは、ジムに行ってきます。
 もう昔は、振り返りません。
 サンキュー、じゃあね。
              10月3日》

 中井は、前へ前へと走り始めていた。

 だが中井がこの原稿を書いたわずか5カ月後、平成5年(1993)の3月に九大の甲斐泰輔が急逝するという悲報が届いた。

 急性膵臓炎、まだ22歳の若さ、あまりに突然のことだった。

 打倒北大のために五年生の七帝戦に賭けて練習に励んでいた好漢の急死を他大学のOBたちも嘆き悲しんだ。

 4月、中井から手紙が来た。

《前略 辺りもすっかり暖かくなりました。皆様如何お過ごしでしょうか。さて、私が横浜にてシューティングを始めてから8カ月の時が流れました。そしてこの度、4月26日(月)の後楽園ホール大会に於て当日の第一試合として私のデビュー戦が決定致しました。(当日は6時開場、6時半試合開始となって居ります)なんとかここまで漕ぎ着けることが出来ましたのも皆様のご支援のおかげです。感謝の念に堪えません。私にとりましてこれが出発点であり、これからも理想に向け精進してゆく所存です。今後も変わらぬご指導宜しくお願い致します。            草々》

 本来ならば大学を卒業して入社する時期である。そういう意味で、彼にとってのデビュー戦は卒業式と入社式を兼ねた元服式のようなものだった。

 私はこの試合には仕事で行けなかったが、則次宏紀に53秒で快勝している。2カ月後の6月24日には倉持昌和に2R1分36秒ヒールを極めて連勝した。

 この3週間後、私は京都での七帝戦で中井に会った。

 もちろん中井もOBとして学生の応援に来たのである。

 いまの静かな雰囲気からは想像もつかないだろうが、中井は宿舎でOBたちに久々に会い、かなりはしゃいでいた。いきがっているようにも見えた。

 いや、正確に言うと中井のシューティング入りを応援していた私にはいきがっているようには見えなかったが、その他の大多数のOB、とくに重鎮たちにはそう見えていたようだ。

 饒舌だった。

 有名プロレスラーの名前を何人か挙げ、「真剣勝負なら簡単に勝てますよ」と言った。

 多くのOBが鼻白んでいた。

 当時、プロレスラーの実態について世間は何も知らないに等しかったのだ。

 私は場を和ませようと「ヒールホールドってどれくらい痛いのか俺にかけてみてくれ」などと言った。中井はかなり力を入れてかけてきて私は絶叫した。

「どうですか。痛いでしょう?」

 中井は人なつっこい表情で笑っていた。

 しかし、目の奥の光は真剣だった。中井は、その痛みで自分たちがやっていることを知ってもらいたかったのだ。

 私には彼が饒舌になっているのは自分を鼓舞させようとしているのだとわかっていた。

 シューティング自体が、まだ迷走の最中だったのだ。

「シューティング? あんな小さいやつらがごちゃごちゃやってなんになる? レスラーに捻り潰されるだけだよ」

 プロレスファンはそう言って笑っていた。

 プロレスが真剣勝負だと思っている人がまだたくさんいた。

 それほど「プロレスの壁」が高かった時代なのだ。

 当時、世間の無知とただ一つ戦っていたプロの団体、それがシューティングだったのだ。

 中井の饒舌は、その無知に対する怒りの表現のように思えた。

 かつて柔道の競技者だったはずの北大OBでさえよくわかっていないのだ。格闘技を経験したことがない一般のファンに真実を伝えるにはとてつもなく高いハードルを越える必要があった。

 横浜に1人で出てシューティングに入門したものの、中井は闇のなかを駆けているような感覚に陥っていたにちがいない。

 自分が強くなっていることは実感していた。

 だが、未来が見えないのだ。

 それはもちろん収入が安定しないとか、そんなちんけな未来のことではない。

 中井はそんなことを気にする男ではない。

 そうではなくて、無知な一般の人たちに真実を伝えるのに何の手だても持たない焦りがあったのだ。

 当時はそのための公平なリングがシューティングにしかなかったのである。

 しかし、そのリングに有名プロレスラーが上がってくれるわけでもない。

 八百長と真剣勝負の境目は、ファイトマネーの積み合いのバランスで決まっていた。

 しかし、興行収入の多寡でファイトマネーが決まる以上、当時のプロレスとシューティングでは勝負しようがなかった。

 後にプロレスラーが総合格闘技のリングに上がって負けざるをえない状況ができたのは、ファイトマネーが、あるときを境目に大きく逆転したからにほかならない。

 シューティングが、真剣勝負が、総合格闘技が、世間の認知を得て成立するには、自力では不可能だったのである。神風がどこかから吹く以外、道はなかった……。

 中井たち当時のシューターたちは、他力本願に頼らざるをえないそんな状況にいらついていたのだ。

 京都での七帝戦応援の後、時間が合ったので、私と中井は同じ新幹線に乗って一緒に帰った。

 中井はたくさんの人がいる場所から2人だけの空間になると落ち着き、いたって冷静に話をした。

「デビュー戦は(吉田)寛裕も来てたらしいな」

「ええ。両親に連れられて。この試合だけはどうしても観たいって言って無理いってついてきてもらったらしいですよ。ほんとうにありがたかったです。あいつの目の前で勝ててよかったです」

 この時、中井は少しだけ複雑な表情をした。

 私も複雑な表情をしていたと思う。

 そこには、あの闘志の塊だった吉田が、朗らかさの象徴だった吉田が、なぜか心のバランスを崩して大学を休学せざるを得なくなり、都内の実家に住む彼にとっては遠くもない後楽園ホールにさえ両親の同伴がなければ行けない状況にあることに対する悔しさと悲しさがあった。

 そしてそんな体調にもかかわらず「中井のデビュー戦だけは何としても行かなくては」という親友としての、いや元主将としての悲愴感のようなものが痛々しかったのだ。

 私には中井の気持ちがよくわかった。

 私の代の主将竜澤が吉田のような状況に陥り、自分が中井の立場だったらどう感じるだろうと重ねて見ていた。

 主将というのは同期の象徴であり、同期の誇りだった。その思い入れがとくに副主将経験者には強いのかもしれない。

 中井は言った。

「実はあのデビュー戦の時ですけど、僕、リングの上で甲斐の顔が浮かんで仕方がなかったんです」

「甲斐って、このあいだ死んだあの九大の甲斐か?」

「ええ。リングに上がってから、ずっと甲斐のこと考えてました」

「…………」

 この年の11月25日、中井は先輩寝技師である朝日昇と5Rフルに戦い判定で敗れている。これを中井は善戦ととったのか悔しい試合ととらえたのかはわからない。

 ただ、この試合のほんの少し前、世間の無知を変え得るかもしれない、待ちに待った神風のようなものが吹き始めたのを中井を含めたシューティング勢は感じ始めていたはずだ。

 11月12日にデンバーで第1回UFCが開かれたのだ。

 格闘技マスコミはこぞってその試合の詳細を報じ、その試合の真偽(八百長説さえ流れていた)や舞台裏を書いていた。

 いま思えば、まさに世界の総合格闘技の夜明けが始まろうとしていたのだ。

 年が明けた平成6年(1994)3月11日の第2回UFCには大道塾の市原海樹が参戦してホイスの片羽絞めで完敗した。

 いよいよ日本の格闘技マスコミが蜂の巣を突ついたような騒ぎになってきた。

 吉田寛裕が逝ったのはその翌月、4月のことだ。24歳だった。

「甲斐に続いて吉田までなぜ……」

 関係者に衝撃が走った。

 吉田が心のバランスを崩したのは、七帝戦で燃え尽きてしまって目標を見失ったからかもしれない。

 あるいはライバルだった九大の甲斐が急逝したことも引き金の一つになったのかもしれない。

 しかし、ならばどうして先輩である私たちはそれをフォローしてやれなかったのか……。

 私の心中にも、そういった慚愧が拭っても拭ってもわき上がってきた。

 しかし、最もショックを受けたのは親友だった中井だったはずである。

 バーリ・トゥード・ジャパン・オープン94が開かれたのは、そんなときである。

 7月29日であった。

 大会ではヒクソン・グレイシーの強さが際だっていた。

 しかし、それ以上に衝撃的だったのが、シューティングのエース2人、川口健次と草柳和宏が打撃系の選手に血まみれにされて負けたことであった。

 中井はこの試合前から「私を出してください!」と佐山聡に直訴し続けていたという噂を聞いている。それについて本人に確かめたことはないので何ともいえないが、あの当時の彼の心理状態ならば充分ありえたであろう。

 佐山は、この川口と草柳の惨敗で中井の寝技に頼らなければならないと気づき始めていたのではないか。

 だからバーリ・トゥード・アクセスと冠して初めてバーリ・トゥード・ジャパン・オープンルールを採用して行われた9月の大会で柔術黒帯のアートゥー・カチャーと中井祐樹の試合を組んでいる。

 中井は3R8分を戦い抜きドローまで持っていった。

 これで「いける」という空気が膨らんだ。

 そして11月7日の草柳和宏とのタイトルマッチで判定勝ちをおさめ、ウェルター級チャンピオンに上りつめた。

 これにより、中井を次の年のバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95に出場させるというレールが敷かれた。

 中井はシューティングの切り札だった。

 しかし、中井の出場とトーナメント組み合わせが発表されると、マスコミ各社はその危険性を訴えた。

 1回戦の相手は第1回UFC準優勝のジェラルド・ゴルドーだった。

 198センチ100キロ。170センチ71キロの中井とは、身長で28センチ、体重で29キロの差があった。

 私も相手がゴルドーと聞いて「これはちょっと……」とさすがに思った。

 試合の数週間前、私のもとに一本の電話があった。ダム技術者になって秩父の現場にいた竜澤からだった。

「中井はリングで死ぬ気らしいぞ」

 そう言った。

 今度の試合で死ぬかもしれない――そう言っているというのだ。

 おそらく中井がだれかに漏らしたのを岩井監督経由で聞いたのにちがいない。もちろん最初から私は日本武道館に観に行くつもりだったが、この電話で「絶対に彼の死をみとどけてやらねば……」という気になった。

 相手はUFCでもあれだけのことをやった凶暴なゴルドーである。体格差だけではなく、危険なのだ。勝つとか負けるとか、そういうレベルの試合になるとはまったく思っていなかった。

 当日、私は竜澤と松井隆の2人の同期と待ち合わせて応援に行った。

 二階席の最前列に陣取った。

 はじめはリングサイドの一番いい席を取ろうと思っていたが、寝技勝負になるだろうから上からの方が観やすいだろうと思い直したのだ。一階席は満員で、リングサイドには正道会館の石井館長や極真の岩崎達也ら有名人がずらりと並んでいたが、二階席は6割の入り、がらがらとはいわないが、とても満員といえる状態ではなかった。

「中井の控室に行きたいな」

 竜澤が前髪をかき上げながら言った。緊張が高まってきたときの彼の癖だ。

「それは無理だろう。関係者じゃないんだから」

 私も、すでに心臓の鼓動が速まっていた。

「でも、行って、俺たちが観ているんだ、ついているんだってことを教えてやりたいだろ」

「それなら激励賞を出すか」

「激励賞?」

 私は、ボクシングなどの格闘技興行ではつきもので、相撲の懸賞金のようなものだと説明した。選手控室に直接届けてくれるはずだ。

 さっそく売店で封筒とボールペン、糊を買ってきた。そして表に〈激励賞、中井祐樹選手〉、裏に〈北大柔道部OB、竜澤宏昌・増田俊也・松井隆〉としたため、1万円札を突っ込んだ。封をしようとしてふと思いついた。

「何か紙切れないかな。一言書き添えよう」

「何でもいいのか」

 松井がポケットからコンビニか何かのレシートを出した。私はそのレシートを受け取ると、裏に〈北大柔道部精神を忘れるな〉と書いて封筒に入れ、糊付けした。急がないと試合が始まってしまう。廊下に出て、バイトの係員に「絶対に本人に手渡してください。試合前にですよ。絶対ですよ」と念押しした。試合前に本人に渡らなければ意味がないのだ。

 私は何度も何度もトイレに立った。他の2人もそわそわと落ち着きがなかった。

 開会式で選手全員がリング上に整列したが、中井だけがひどく小さく、貧弱に見えた。

 あの激励賞は中井に届いているのだろうか。私たちは何度かそう話し合った。中井は怖くはないのか。気が気ではなかった。

「デビュー戦の時、リングの上で甲斐の顔が浮かんで仕方がなかったんですよ」と言っていたのを思い出し、いま中井は吉田寛裕と甲斐泰輔のことを考えているのだろうかとも思った。

 中井vsゴルドーは第2試合だった。

 1試合目なんか目に入ってなかった。中井の試合のことばかり考えていた。

 両者がリングに上がった。

〈青コーナー、プロフェッショナルシューティングウェルター級王者、中井祐樹!〉

 アナウンスがあった。

 中井はマウスピースを何度か噛み直しながら右手を挙げて応えた。私たちを入れても声援は会場全体で数えられるくらいしか上がらない。

 一方のゴルドーが紹介されると、会場は一斉に沸いた。明らかにゴルドーがUFCで見せた残虐性を観客は期待していた。リングスの山本宣久が出場していたので、観客の8割以上をプロレスファンが占めているようだった。

 ゴングが鳴った。

 中井が上半身を振りながらタックルにいく。つかまえた。

「よし!」

 竜澤が言った。

サミング  しかし、ゴルドーはそのまま後ろに下がり、トップロープを左腕で抱えて倒されないようにしてから右腕で中井の頭を抱えた。中井は左足をゴルドーの右膝裏にかけて倒そうとするが、ゴルドーがロープを抱えている以上、倒せない。

「中井、そのまま放すなよ!」

 私は大声を出した。

 すぐにレフェリーとリング下の係員が何か話しだした。そしてレフェリーの「ストップ! サミング!」という小さな声が聞こえた。レフェリーは親指を立て「コーション!」と言った。

〈ジェラルド・ゴルドー選手に注意1です〉

 場内アナウンスが入ると場内が沸いた。

 このときすでに、中井の右目はゴルドーの親指の爪によって眼球の裏までえぐられていた。

 しかし中井は黙ってゴルドーに抱きついたままだった。

 二階席から応援する私たちもサミングがあったことはわかったが、まさか失明するほどのダメージを受けているとはまったく気づかない。

 中井の精神力は人間離れしていた。

 当時の観客のマナーはひどかった。この膠着状態に「何やってんだよ!」とか「いつまでも抱きあってんなよ、オカマか!」という声が飛び、それに対して笑いが起きたりしていた。

 第1Rはそのままの姿勢で終わった。セコンドはラウンド間の休憩に中井の右目のあたりを氷嚢で冷やしていた。

 第2Rが始まってコーナーから飛び出す。

 中井の右目から血が流れていた。

パウンド  中井が軽く前蹴りにいったところにゴルドーが右ロー、それに合わせて中井が滑り込むようにそのゴルドーの右脚を捕まえ、下から両脚をからませる。

 ヒール狙いだ。

 しかし、ゴルドーはまた片手でロープをつかみ、上から激しいパウンドを浴びせた。

 場内が大歓声に包まれた。

「ゴルドー! 殺せ!」

 ゴルドーの拳が打ち下ろされるたびに中井の後頭部がマットにぶつかる大きな音が響き、右目から鮮血が飛び散る。

 私たちは「中井、逃げろ!」と叫び続けた。

 しかし、場内全体が殺気立ち、観客たちは劣情をもよおしていた。

 私たちのまわりの観客もひどい野次を繰り返していた。

「そのまま中井を殺しちまえ!」

 後ろの観客が叫んだ。

「こら、おまえらうるさいぞ」

 熱血漢の竜澤が後ろを振り向いてすごんだ。

 五人くらいで見ていたそのグループは怖がって黙ったが、しばらくするとまた野次りだした。私たちが中井の先輩だなどとは夢にも思っていないだろう。だから竜澤がどうして怒ったのかわかっていないのだ。

「殺せ!」

 また後ろの観客が大声を出した。

「ちょっと遠く行って観てくれんか」

 今度は私が振り向いて言った。

 彼らはまた黙った。

 私が前に向き直ると、こそこそと後ろで何か話している。そして「おまえらこそうるせえんだよ」と聞こえよがしに言った。

 その瞬間、私の横に座っていた松井が「いいかげんにしろ!」と後ろを向いて立ち上がった。顔が真っ赤だった。私や竜澤はもともと喧嘩っ早かったが、松井が怒ったのを見たのは初めてだったので、私たちが驚いた。

 そのグループは松井の剣幕に驚き、さらに竜澤と私が後ろに向き直ってにらみ付けたので舌打ちして他の席へ移動してしまった。

 試合は凄絶なものになっていた。

 またゴルドーの激しいパウンドが始まる。

 ロープ際からエプロンサイドに中井は逃げる。それでもゴルドーは叩き続ける。見ていられなくて私は目をそらした。

「もう試合放棄してもいいんだぞ……」

 松井が苦しげにつぶやいた。

猪木アリ状態  私も同じ気持ちだった。わかったから中井……おまえの心意気は充分俺たちに伝わった……試合放棄しろ……。

 場内全体の野次やブーイングはひどくなるばかりだった。

「ドント・ムーブ」

 レフェリーが両者の動きを止め、リング中央に2人を移動させた。

 場内が沸いた。

 残酷シーンがまた見れると思っているのだ。だが、そこからゴルドーは立ったまま腰に両手を当てて攻めてこず、中井は仰向けに寝たまま両手で「カモン!」とやっている。いわゆる猪木vsアリ状態だ。

お前こそ来い! 野次がまたひどくなる。

 しかし中井はそんなものは気にしてないように「カモン」とゴルドーを寝技に誘い続ける。中井の心は折れていない。

 長い長い第2Rが終わった。

 コーナーに戻った中井の顔の右半分は大きく腫れ上がり、右目の出血もかなりひどくなっていた。

 それを氷嚢で冷やされながら、しかし中井の左目は、ずっと赤コーナーのゴルドーを見据えていた。

 中井が戦っているのは目の前のゴルドーではあったが、中井が本当にやろうとしていたのは無知な世間を引っ繰り返すことだった。

 京都で会ったときの中井の饒舌、魂の叫びをリング上で見た気がした。いま、中井は言葉ではなく、体でその叫びを表現する場を得ている。ならば中井は、この戦いを楽しんでるのではないのか――ラウンドの合間に私たちはそんな話をした。そう考えると少し気が楽になった。

 試合は嫌になるほど延々と続いた。

 観客は同じ展開に飽き始めていた。

 しかし、私たちだけは奥歯を噛みしめてリング上の中井と痛みを共有しようとしていた。

 私は、もうどんな残酷なシーンでも目はそらすまいと思った。中井があきらめないで戦い続けているのに先輩の私たちがそれから目をそらしたらあまりにも情けないではないか。

 リング上の中井は8分無制限ラウンドを延々と戦い続けていた。

 タックルでつかまえる中井。ゴルドーはまたロープを抱える。

「中井!」

 ロープを抱えたままのゴルドーに抱きつく中井に私たちは叫び続けた。

 しかし、リングは遠く、とてもその声は届かない。やはりリングサイドの席を取ればよかった。そう思いながら、ただただ「中井!」と名前を叫び続けた。ほかに何もしてやれないのがもどかしかった。

 4R。中井が両脚タックルからゴルドーをコーナーに押し込んだ。

 ゴルドーがフロントチョークを狙う。

 極まっているように見えた。

 だが、中井がゆっくりと体を下げながらそれを外し、ゴルドーの左脚に自らの両脚をからみつけた。

 観客がまた残酷なパウンドを期待して騒いだ。

 しかしゴルドーがパウンドを打とうとしたその瞬間、中井が渾身のヒールホールドを仕掛けた。ゴルドーの上半身がぐらりと揺れて、ゆっくりと倒れていくシーンを、私は昨日のことのように覚えている。

 ゴルドーがマットを叩いた。

 武道館内の野次が大歓声にかわる。

 中井が自らの力で世間を引っ繰り返した瞬間だった。

 私は頭のなかが真っ白になって竜澤と松井と握手を繰り返した。

 準決勝のクレイグ・ピットマンとの戦いは、ピットマンにアマレスの下地があるのでゴルドー戦よりも面倒なように思えたが、中井は下から腕十字をきっちり極めてみせた。決勝の相手ヒクソン・グレイシーは顔面を大きく腫らしながら決勝に上がってきた小兵の中井に敬意を表したような戦い方をした。私たちは流れるような2人の寝技戦に魅入った。

 この大会が、本当の意味で日本のMMAの嚆矢となった。

 神風を起こしたのは、たしかにグレイシー一族でありUFCであった。

 しかし、神風が吹くだけでは大きな波がおこるだけで、その波を乗りこなせるサーファーがいなければ、波はただ岸にぶつかり砕けて消えるだけだ。

 神風が起こした大波を、右目失明によるプロライセンス剥奪という死刑宣告と引き替えに乗りこなした中井祐樹がいたからこそ、日本に総合格闘技が根付きえた。それだけは格闘技ファンは絶対に忘れてはいけない。

 文芸編集者や評論家に、こう言われる。

「どうしてそんなマイナーなものを書いてるんですか? せっかく作家になったんだから、もっとエンターテインメント性のある小説をたくさん書いてメジャーを目指した方がいいですよ」

 マイナーな話とは『月刊秘伝』に連載中の「七帝柔道記」のことだ。

 私はなんと答えたら納得してもらえるかわからないので黙っているが、本心はこうだ。はっきり言うがマイナーな話なんかじゃあない。

 偉大なる物語だ。

 青春の全エネルギーを七帝柔道というチームスポーツに燃焼しつくし、22歳で逝った甲斐泰輔への、24歳で逝った吉田寛裕への鎮魂歌だ。

 そして、2人の大切な友を失いながら強さだけを追い求め、リング上で世間の無知を覆し、世間の偏見を引っ繰り返すために、たった一日だけ鮮烈な光を放って消えた「総合格闘家中井祐樹」への鎮魂歌だ。最後のクライマックスはもちろんバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95である。

 連載を終え、書籍になってそれを吉田と甲斐の両親に手渡すまでは、私の七帝戦は終わらない。いや、日本の格闘技史の総括は終わらないと思うのだ。

 中井が平成元年の4月、北大道場を訪れず極真に入門していたら、いまの中井はなかったであろう。極真からシューティングに進んでいたとしてもゴルドーに勝つことはできなかったはずだ。

 あの日、中井祐樹という稀代の勝負師がたまたま北大道場を訪れ、たまたま入部し、そこで親友の吉田とライバルの甲斐という好漢2人に出会い、寝技にのめりこんだ。それが現在のMMAシーンの巨大な潮流を作ったのは間違いない。

 奇跡以外のなにものでもないではないか。

 この奇跡を、私が書かないで、いったい誰が書いてくれるというのか。

(『ゴング格闘技』2009年6月号)